2013年5月3日金曜日

いじめの構造と不適切発言

個人的なこと書きます。

昨日は仕事もはかどらず、なんだかとても疲れていて、タイムラインでもギザギザしたことばかり書いていた。

そんな矢先、ある人に向かってトゲのあることを書いて怒らせた。阿吽の呼吸の「いじり」のつもりで「阿」と書いたつもりだったけど、相手にとってはそうではなかった。不快にさせてしまったようで、申し訳なくDMで謝った。こころから許してくれているかどうかは分からないけれど、こればっかりはしょうがない。こちらに非があるのだから。

その後、少し冷静になるとこの構造は学校のいじめに似ているなと思いハッとした。毒を吐いてもネタだし「いじり」なんだぜと開き直れば、それはいじめじゃないというよくある構造。今回の出来事と同じである。いじめる側の論理と、今回心の中で感じた感情は同じなのではないのか?自分であれこれ発言してきたいじめ問題と同じ構造に自分がはまっていることに気がついた。

そのあと別の人から「謝るくらいならやんなきゃいいのに」と言われた。全くの正論でぐうの音も出なかった。

こちらもある事件を連想させた。それは猪瀬都知事のニューヨークタイムズの不適切発言である。最初、言い訳したうえに、最後は撤回謝罪するというストーリーだった。心の中で「謝るくらいなら言わなきゃいいのに」と思っていた矢先だったので、この「謝るくらいならやんなきゃいいのに」はグサリときた。阿吽の呼吸のいじりという「真意」が伝わらなかったというような気持ちが少しあったのも本当だからだ。

このお調子者で悪乗りが過ぎる性格はたぶん変えられないだろうし、SNSだけでなく、リアルな場所でもきっと似たようなことをやって誰かを不快にさせているのだろうなと思うと、切ない気持だ。でも、性懲りもなくまたやってしまうのだろう。せめて、ちゃんと謝るという最低線だけは守らなきゃいけない。

ごめんなさい。

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