2013年4月28日日曜日

わたしは塔婆の陰にはいません

Sotoba.jpg [CC BY-SA 3.0]
もう7年くらいになるでしょうか?「千の風になって」という曲が流行りましたね。私の母親もこの曲が好きで、葬儀で流したくらいです。これには、米国の「Do not stand at my grave and weep」という原詩が存在するそうで、日本語の歌もほとんどそのまま翻訳したような中身になっています。

歌詞は引用できないので、似たのを書きますと
「私の塔婆の横で 泣いたらあかんで そんなとこにワシはおらへん 死んだんとちゃう 風の谷や ナウシカ的な風になって 青く澄み切った空を 悠々と旅してるんやで ええやろ」
てな感じでしょうか。この歌詞が流行った理由は、おそらく日本人の死生観、宗教観にピッタリときたからだろうと思う。米国はキリスト教の国だから、現世の肉体から離れて魂が自由になった感覚で、日本人の感覚とは違うのかもしれません。

それから、日本は核家族化して、いや家族・血縁関係という価値観がもはや過去のものになっていて、お墓に対する意識も変わってきていていると思うのです。もちろん、お墓を維持できないとか、孤独死でお墓以前の問題やねとか、そういう経済的な事情も大きいのでしょうけれど。いろいろ調査を見ると、お墓が欲しいという人は少なくない一方で、シンプルな葬儀や、散骨などのお墓のいらない埋葬を望む人はじわじわ増えている。

かく言う私の父母も「墓不要」「遺骨適宜」というのが遺言なので、そのうちひとまとめに散骨する手筈になっています。擂り粉木でごりごり粉にして撒くのだそうです。

さて、私は無神論者で宗教を信じないばかりか、死んだ人の霊も存在しないと思っているバチあたり者。だから貧乏なのかもしれませんが、それをご先祖様や両親のせいにする気はありません。お墓もないから墓参りもしない。せいぜい、正月などにみんなが集まった時に昔の写真をみて懐かしがるくらいです。

そして、自分も死んでも絶対お墓には入りたくない。お墓に閉じ込められて墓前で手を合わされるのかと思うと、死んでも死に切れません。できることなら、サメの餌にでもしてくれればいいのにと思っています。現実問題としては不衛生なので、やはり散骨とか火葬の完全焼却とかそんなのができたらいいなぁと思うわけですが。

そんなこと言ったって、正月には神社に参拝して手を合わせるし、クリスマスには「じんぐるべー」と歌ってケーキむさぼり食ったりします。けど、宗教感覚はゼロ。神社で手を合わせる時に神様を呪ったりしていますが、今のところ貧乏なことを除いてまあまあの幸せだったりします。オヤジも無神論者だったけど、長生きしたしね。



さてここで気になるのが、意外な展開と思われるかもしれないけど「靖国問題」。安倍ちゃんが「靖国神社の英霊に尊崇の念を捧げることは当然ことだ」って言ったっていうじゃない。「ふーん、安倍ちゃんも霊って信じてるのね」が俺の第一印象だった。霊なんて存在しないぜ論の立場からすると、「わたしはそんな石ころのところにはいません 靖国神社になんかいません」な感じがするのね。とても強い宗教的メッセージを感じちゃう。「尊崇」ってのがまた宗教じみた言葉だからハンパない。

も一つ疑問なのが中国。中国って共産主義で宗教は信じてないわけだよね。だったら、英霊とかそんなの存在しないじゃない?滑稽だと思う。

この日本人の霊を信じる心ってやつは厄介。何故かというと、キリスト教の場合には聖書が基盤にあって、読み方は流派によって違いがあるらしけど、一応それに従って生きることが大事なわけでしょう?いい意味でも、悪い意味でも一本化されてる。

一方、日本人の信心って空気みたいなものです。だからその空気みたいなものに支配されてしまうマインドを持ちやすいんだと思うわけ。あやしい新興宗教でも、怪しい脳科学でも、怪しい占い、怪しい政治家でも全部信じちゃう。

キリスト教みたいに、聖書に基づいて考えるみたいなスジがないんだよね。これが日本人の精神性を特徴づけていると思うんです。空気を読むみたいなことに表れてるようにね。安倍ちゃんだって本気で英霊なんて信じてないでしょう?まさかね。

霊なんて信じないほうが幸せだと思う。宗教に振り回されてきた人間の歴史ってのを考えるとさ。
  • Do not stand at my grave and weep
    http://ja.wikipedia.org/wiki/Do_not_stand_at_my_grave_and_weep

0 件のコメント:

コメントを投稿