2013年7月14日日曜日

忘れられた憲法改正の視点

憲法を変えるとか、変えないとか、盛んに議論されている。私は自民党の原案には厳しく批判的だが、改正論議自体には賛成だし変えたほうがいいと思うところがないわけではない。しかし、その中で、全く議論の遡上に挙がらなくて不思議でしかたがない論点がある。

それは、憲法を変えて発生する社会的なコストだ。憲法が変わるのだから、民法や刑法といった基本的な法律も見直すことにならざるを得ない。また、憲法をめぐる様々な判例も参考にできなくなり、法曹界は大忙しである。憲法解釈にも多大な時間と社会コストがかかるだろう。

さらにいえば、それらの法規を根拠にした政令や自治体などの規定、民間の契約にも影響を与える。

いや大丈夫だ、現行の法律は一切変更しませんというのなら、改憲する意味が失われてしまうし、改憲されれば個々の条項の意図とは関係なく、憲法解釈をめぐる訴訟がおきるだろう。憲法違反と言われれば、法律や政令なども変えざるを得ない。

このように、国や自治体だけでなく、日本じゅうで改憲コストを負担することになるのだ。うがった見方なのだろうが、新しい公共事業の創出と見ることさえ可能だ。しかも、それに乗じて官僚が都合のいい法律改正を次々と繰り出してくるやもしれない。

今の日本で、こんなことにコストをかける意味があるのだろうか?この国はそんなことをやっていられるような状態なのか?コストに見合った改憲でなければ、たとえ良い内容であっても、賛成する気にはならない。そして、改憲論議がとても呑気に思えてならないのである。

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